1. はじめに
海賊というと、どんなイメージが浮かびますか?金貨や宝石を奪い、船を襲い、人々を殺す無法者たちでしょうか。あるいは、自由に海を渡り、冒険やロマンスを楽しむ夢見る者たちでしょうか。海賊には様々な顔がありますが、その中でも最も恐れられた存在がブラックベアードでした。
ブラックベアードとは、18世紀初頭に活躍したイギリス出身の海賊で、本名はエドワード・ティーチまたはエドワード・サッチと言われています。彼はその名の通り、長く黒い髭をたくわえており、その髭に火薬を仕込んで火を灯すという恐ろしい儀式を行っていました。彼の外見はまるで悪魔のようで、敵味方から恐怖の対象となりました。
彼はどのようにして海賊になったのでしょうか。彼の生い立ちや経歴についてはほとんど分かっていませんが、一説によると、彼は元々イギリス海軍の私掠船船長だったと言われています。私掠船とは、戦時に政府から敵国の船を攻撃する許可を得た船のことで、その報酬として敵国の財産を略奪することができました。しかし、スペイン継承戦争が終わると、私掠船の需要は減少しました。そこで、ブラックベアードは私掠船から海賊に転身したのです。
この記事では、ブラックベアードの凶悪なる海賊としての生涯を追ってみましょう。彼がどのようにして恐怖と名声を築き上げたか、彼が指揮した有名な海賊船クイーン・アンズ・リベンジ号について、彼が行った凶行や恐怖の布告について、そして彼がバージニアで最期を遂げた出来事について詳しく見ていきます。また、彼の死後に残された遺産や影響についても触れてみます。
ブラックベアードの物語は、その恐ろしい外見と行動から生まれる伝説的な海賊の一例であり、彼の名前は今日でも海賊のイメージに影響を与えています。
2. 海賊としての登場
ブラックベアードは、元々はイギリス海軍の私掠船船長でした。私掠船とは、戦時に政府から許可を得て、敵国の船を攻撃し、その財宝や物資を奪うことができる船のことです。私掠船船長は、自分の船員や装備を自費で用意し、戦闘に参加する代わりに、獲得した戦利品の一部を政府に納めるという契約を結んでいました。
ブラックベアードは、1716年頃に私掠船船長として活動していたベンジャミン・ホーニゴールドと出会い、彼の部下となりました。ホーニゴールドは、カリブ海や大西洋で多くの敵船を襲撃し、その中にはスペインの宝物艦隊も含まれていました。ブラックベアードは、ホーニゴールドの指揮下で多くの戦闘経験を積み、海賊としての技術や知識を身につけました。
しかし、1717年になると、イギリス政府は海賊行為に対する取り締まりを強化し始めました。イギリス王ジョージ1世は、海賊たちに恩赦を与えることを宣言しました。これは、海賊たちが自ら出頭し、海賊行為をやめることを誓えば、罪を許すというものでした。この恩赦によって、多くの海賊たちは正規の商船や軍艦に復帰しました。
しかし、ブラックベアードはこの恩赦を受け入れませんでした。彼は、海賊行為が自分の人生の目的であり、自由で冒険的な生き方であると考えていました。彼は、ホーニゴールドから離れて独立し、自分の部下や仲間を集めて新たな海賊団を結成しました。彼は自分の旗艦としてフランス商船コンコルド号を奪い取り、それを改造してクイーン・アンズ・リベンジ号と名付けました。これがブラックベアードが最初に海賊として登場した時期であり、彼はその後もカリブ海や北米沿岸で暴れまわりました。
3.ブラックベアードの恐ろしい外見と名声の確立
ブラックベアードは、海賊としての名声を築くために、自分の外見にも工夫を凝らしました。彼は、黒い髭を長く伸ばし、それを細かく編んでリボンで結んだり、銀の指輪や骨や銃弾などの装飾品をつけたりしました。彼の髭は、顎から胸まで届くほどでした。彼はまた、黒いコートと帽子に身を包み、腰には6本もの拳銃と刀やナイフなどの武器を差し込みました。彼の姿は、まるで悪魔のように見えたと言われています。
しかし、彼が最も有名になったのは、彼の髭に火を灯すという恐ろしい儀式です。彼は、戦闘に臨む前に、自分の髭に火薬を振りかけて点火しました。すると、彼の顔から煙と火花が噴き出し、まるで口から火を吹くドラゴンのように見えました。この儀式は、彼の敵に恐怖を与えるだけでなく、彼自身にも勇気と力を与えるものでした。彼は、自分が死ぬまでこの儀式を続けました。
ブラックベアードは、このように自分の外見と行動で、海賊としての名声を確立しました。彼は、自分が恐れられることを望み、そのためにあらゆる手段を使いました。彼は、海賊史上最も凶悪な海賊として知られるようになりました。
4. 海賊船クイーン・アンズ・リベンジ号
ブラックベアードは、1717年にフランスの奴隷船ラ・コンコルド号を奪取し、自分の旗艦として改名した。彼はその船をクイーン・アンズ・リベンジ号と名付けた。この名前は、イギリスの女王アンがスペインとの戦争で敗北したことに対する復讐を意味していたと言われている。
クイーン・アンズ・リベンジ号は、元々は200トンの貨物船で、40門の大砲を搭載していた。しかし、ブラックベアードはこの船をさらに強化し、60門以上の大砲を備えた恐るべき戦闘艦に改造した。彼はまた、船首に髑髏と骨の旗を掲げ、敵に恐怖を与えた。
クイーン・アンズ・リベンジ号は、ブラックベアードの海賊行為の主要な道具となった。彼はこの船でカリブ海や大西洋沿岸を荒らし回り、多くの商船や入植地を襲撃した。彼はまた、この船で他の海賊たちと同盟を結び、海賊共和国を築こうとした。
しかし、クイーン・アンズ・リベンジ号は、ブラックベアードにとって長くはなかった。1718年6月、彼はこの船を北カロライナ州ビューフォート入り江で座礁させてしまった。彼はこの事故で多くの財宝や武器を失った。彼はその後、別の小型の船に乗り換えて逃亡したが、数か月後にバージニアで戦死した。
クイーン・アンズ・リベンジ号は、ブラックベアードの海賊としての最盛期を象徴する船であった。この船は1996年に発見され、現在は考古学的な調査や保存が行われている。この船からは、多くの遺物や貴重な情報が得られており、ブラックベアードの生活や時代を知る上で貴重な資料となっている。
5. 凶行と恐怖の布告
ブラックベアードは、海賊としての名声を高めるために、数々の凶行と恐怖の布告を行いました。彼は、自分の敵や犠牲者に対して、残酷で非人道的な行動を取ることで、彼の存在を知らしめるとともに、彼に従う者たちにも忠誠心を強要しました。
ブラックベアードが行った海賊行為と攻撃の中でも、特に有名なものは、1718年5月に起こったチャールストン港での封鎖です。彼は、自分の海賊船クイーン・アンズ・リベンジ号と他の3隻の船で、チャールストン港に入ってきた船を次々と拿捕しました。彼は、港から出てきた船にも砲撃を加え、市民たちを恐怖に陥れました。彼は、港から出てきた船の乗客や乗員を人質に取り、身代金として医薬品や金品を要求しました。彼は、身代金が届くまでの間、人質たちを虐待し、殺すと脅迫しました。彼は、身代金が届いた後も、人質たちを解放する前に、彼らの指や耳などを切り落とすという恐ろしい儀式を行いました。
ブラックベアードは、自分の敵や犠牲者だけでなく、自分の部下や仲間に対しても残酷な行動を取ることがありました。彼は、自分の部下が不満や反抗を示すことがないように、時々彼らに暴力を振るったり、拷問したりしました。彼は、自分の部下が自分よりも優れていることを許せなかったので、時々彼らに無意味な試練や危険な任務を与えました。例えば、彼はある時、自分の部下に火薬庫に入って火薬に火をつけるように命じました。その結果、火薬庫は爆発し、多くの部下が死傷しました。ブラックベアードはこの事件を笑って見ていました。
ブラックベアードは、自分の凶悪な行動や恐怖政治によって、海賊界では最も恐れられた存在となりました。彼は、自分の敵や犠牲者だけでなく、自分の部下や仲間も支配することで、自分の力と名声を高めていきました。彼は、海賊として最も伝説的な人物の一人として歴史に名を残しました。
6. バージニアでの最期
ブラックベアードの最期となった出来事は、1718年11月22日にバージニア州オクラコーク島で起こりました。彼はその前の数ヶ月間、カリブ海や北米沿岸で海賊行為を続けていましたが、イギリス政府は彼の捕縛に熱心に取り組んでいました。イギリス海軍のロバート・メイナード中尉は、ブラックベアードの居場所を突き止めるために、スパイや情報屋を使って彼の動向を探っていました。
メイナードは、ブラックベアードがオクラコーク島に停泊していることを知り、彼を奇襲するために二隻のスループ船を率いて出発しました。メイナードは、ブラックベアードの海賊船アドベンチャー号に近づくと、自分の船の乗組員を甲板下に隠しました。これは、ブラックベアードが自分の船の人数を少なく見積もらせるための策略でした。ブラックベアードは、メイナードの船が近づいてきたことに気づき、自分の船から大砲を発射しました。しかし、メイナードの船はそれに耐えて接近し続けました。
メイナードの船がアドベンチャー号に横付けすると、メイナードは甲板下から乗組員を呼び出しました。両者の間で激しい白兵戦が始まりました。ブラックベアードは、自分の髭に火を灯して恐ろしい外見で敵を威嚇しました。彼は剣や銃で戦いながら、メイナードと対峙しました。二人は激しく斬り合いましたが、ブラックベアードは次第に傷つき始めました。彼は20回以上も切りつけられ、5回も銃で撃たれました。それでもなお彼は戦い続けましたが、ついに力尽きて倒れました。
メイナードは、ブラックベアードを倒したことを確認するために、彼の首を刎ねて持ち上げました。そして、その首を自分の船のマストに掲げて勝利を示しました。ブラックベアードの遺体は海に投げ捨てられましたが、伝説によると、彼の首なしの体は水面を泳ぎ回っていたということです。
ブラックベアードの死は、海賊界に衝撃を与えました。彼はその恐怖と名声から、「海賊王」と呼ばれることもありました。しかし、彼の死後も彼の伝説は消えることなく、多くの文化や物語に影響を与え続けています。
7. 彼の遺産と影響
ブラックベアードの死後、彼の伝説は消えることなく、多くの人々に語り継がれました。彼の海賊行為は、文化や物語に大きな影響を与えたのです。
彼の死体は、首を切り落とされてマストに掲げられました。その首は、海賊退治の証拠として、バージニアのハンプトンにある海軍基地に運ばれました。彼の首は、その後も長い間、公開されていました。彼の遺体は、海に投げ捨てられましたが、伝説によると、彼の遺体は何度も船の周りを泳ぎ回ったと言われています。
彼の海賊船クイーン・アンズ・リベンジ号は、1718年に沈没しましたが、1996年に発見されました。その船からは、多くの貴重な遺物が回収されました。その中には、彼の髭に火を灯すために使った火打ち石や火薬もありました。これらの遺物は、現在、ノースカロライナ州の博物館で展示されています。
彼の名前や外見は、多くの作品に登場しています。例えば、ロバート・ルイス・スティーブンソンの小説『宝島』では、ブラックベアードが言及されています。また、ディズニー映画『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズでは、ブラックベアードが登場し、ジョニー・デップ演じるジャック・スパロウと対決します。さらに、テレビドラマ『ブラック・セイルズ』では、ブラックベアードが主要な登場人物として描かれています。
ブラックベアードは、凶悪なる海賊の伝説として、歴史に名を残しました。彼の異名は、今日でも海賊のイメージを形作っています。彼は、海賊としての生き方を貫いた男であり、その生涯は多くの人々に興味や感動を与えています。
8. 結論
ブラックベアードは、海賊としての生涯を燃え尽きるように駆け抜けた男でした。彼は、イギリス海軍の私掠船船長から海賊に転身し、カリブ海や大西洋で恐怖と畏敬の念をもって語られる存在となりました。彼は、自らの髭に火を灯すという恐ろしい儀式を行い、敵に対して威圧的な外見と行動で臆することなく戦いました。彼は、クイーン・アンズ・リベンジ号という有名な海賊船を指揮し、多くの船や港を攻撃し、略奪しました。彼は、バージニアでの最期の戦闘で勇敢に戦い、首を切り落とされてもなお戦い続けたという伝説を残しました。
ブラックベアードの凶悪な伝説は、彼の死後も消えることなく、文化や物語に影響を与え続けています。彼は、海賊のイメージを形作る重要な人物として、多くの作品に登場しています。例えば、ロバート・ルイス・スティーヴンソンの小説『宝島』では、ブラックベアードの宝物が登場します。また、ディズニーの映画『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズでは、ブラックベアード自身が登場し、ジャック・スパロウと対決します。彼は、海賊の代名詞として、今日でも人々の想像力を刺激しています。
ブラックベアードは、歴史に刻まれた海賊の一人です。彼は、自分の信念と野望に従って生きた男であり、その生き様は凶悪でありながらも魅力的でした。彼は、海賊という職業や生き方に対する人々の認識や評価に影響を与えました。彼は、海賊の中でも最も有名であり、最も恐れられた男でした。
オクラコーク島 (uncw.edu)
カリブ海の海賊 (歴史) - Wikipedia
海賊の黄金時代 - Wikipedia
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